もっと愛しなさい



ずっと長~い間、秘かに大切にしてきた、OSHOの短めの質疑応答。



親愛なるOSHO、私の生は恐怖に支配されています。私を助けてくださいますか?


OSHO:多かれ少なかれ誰の生も恐怖に支配されている。

なぜなら、生を生きるには、ふたつの道しかないからだ。

愛に支配されるか、恐怖に支配されるか。

一般的には愛することを学ぶまでは、生は恐怖に支配されることになる。

愛がないときには、恐怖の存在は避けがたい。

それは愛の不在にすぎない。愛することができれば、恐怖は消え去る。


だから私があなたに言いたいひとつのことは、

あまり恐怖に注意を払いすぎてはいけないということだ。それは自己催眠になる。

自分は恐怖とともに生きているのだと考えつづけたら、

あなたの生は恐怖に支配されるようになりーーー、それでおしまいだ!

それが示しているのはただ、愛が恐怖を消えさせるのに充分なほど強くはなっていないということだ。


恐怖はたんに症状にすぎない。それは病気ではない。治療法はないし、その必要もない。

それはただ症状でしかなく、しかも極めて有用でもある。

つまりそれが示しているのは、もうこれ以上、生を浪費してはいけないということだ。

あなたは“もっと愛しなさい”と言われている。


OSHO(Hammer on the Rock)

自分にとって、この講話はちょっとした“お守り”のような存在で、理由があるにしろないにしろ何かしら恐怖が沸き起こり、にっちもさっちも行かない感じで心が煮詰まった時、幾度となく読み返しては気持ちを落ち着かせてきたという、そんな存在だったのです。短いしね(笑)


そんな、私にとっての“お守り”との関係に変化が起きたのが、数年前の梅雨の時期。

ある人から誘われた、ホームパーティー前日の夜。誘われた時は喜んで招待に応じたものの、いざ行くとなると知らない人ばかりの場である事に躊躇と緊張と厄介さを感じてしまい、もう面倒臭いなぁ~というどんよりした気分に陥ってしまった。

梅雨なので、当然ながら外は雨。暗い。

そして、次の日も天気予報は雨。怠い。

こういう気分の時には、どうしても過去のつまらぬ傷とも意識が密着しやすい。やれ、タロットだの、数秘だの、OSHOだの、瞑想だの、わけのわからぬところに繋がってきた人間としては、初めて会う人たちから受けるジャッジだったり、必要とされるコミュニケーションだったり、今までの経験からのネガティブなアレやコレやが浮上してきたりして、身も心もどんどん固くなっていく一方。


家でゴロゴロしながら、そんなどんよりした気分を持て余していたところ、この“お守り”の存在をフト思い出して、でもこんなんじゃ最初に読んだ二十歳の頃と全くぬぁんにも変わってないじゃないか、もう随分経ったのにまるで成長してないなんて、ホントに情けないねぇ~ と、内心苦笑しながら奥から引っ張りだして、久しぶりに読んでみたのです。もうコレで、いったい何10、何100回目になるのだろう?

うーん、この最後。

あなたは“もっと愛しなさい”と言われている。


この最後の一文。

いつも“お守り”を読み返していた時は、心に余裕がない状態だったので「もっと愛しなさい」と最後に言われても、いつも頭によぎっていたのは常に、どこの、だれを、なにを、といった感じで、他の何かへベクトルが向かうイメージだった。


でもよーくよく考えてみれば、今までに「もっと(自分を)愛しなさい」という風に、私自身にベクトルが向かう感覚で、この最後の一文を捉えてみた事って、一度たりとも無かったかもしれない…


ちょっとものは試しで、今回はもっと(自分を)愛するというニュアンスで、改めて最後の一文を意識的に読み直してみたのでした。


すると…急に身体の中の何かがギュルギュルギュル!っと一気に違った回転をして、さっきまであんなにどんよりと冷えて固くなっていた心と身体が、まるでゆっくりと温泉に浸かった後のように、じんわりぼわ~っと緩んできたのです。ゴロゴロ寝たまんまなのに。えええええ? 何コレ(汗)

フト気がついてみれば、さっきまであんなに明日はどうしよう気分だったのが、明日は何を着て行こう気分へと、うっすらと思考がスライドしている。

それまでの人生で精神的に大きな変化が起きたシチュエーションというのは、個人セッションを受けたとか、グループセラピーに参加したとか、瞑想の中で発見したとか理解したとか、仕事だとか、人間関係だとか、何かしら説明のできるポイントがあった訳ですが、今回ばかりは雨でだるくて部屋でゴロゴロしながら、ある一文を読み返したら変容が起きましたという、人に語るにしてはあまりに夢もセンセーションもなさ過ぎるのでした(笑)


まあとかくこの手の変容は、しばらくすると元のパターンに戻ったというオチが割とあるあるなのですが、此度は1つゴツい壁がちゃんと抜けられた模様。

そんな訳で、かつての私の“お守り”は、今となっては“OSHOの質疑応答の一つ”という存在になったのでした。

ひとまず良かったね、二十歳の私(笑)