広島原爆記念の日に、フト思い出したこと
- あぷるば
- 8月6日
- 読了時間: 2分

忘れぬうちに書いておく。
私は4〜14歳まで、広島で育った。
幼稚園はプロテスタント系で、そこで長年園長を勤めていた先生は牧師でもあり、10代でコンクリート塀の瓦礫の下敷きになって助かったという被爆者でもあった。
あまり大きくない幼稚園でアットホームな雰囲気だったこともあり、私は卒園後も小学校低学年の間は日曜学校やイベントなどに時々参加していた。そして夏のイベントで移動中のバスの中、その園長先生と幼稚園の男児たちとの間で、ちょっとしたやり取りが起きた。
園児「原爆はアメリカが作ったの?」
先生「そうだよ。」
園児「じゃあ、アメリカが悪いんじゃ!」
先生「作ったままで落とさなかったら、先生も火傷せずに済んだね。」
園児「じゃあ、落としたやつが悪いんじゃ!」
先生「でも落とした人も命令されて落としたんだよ。」
園児「じゃあ、命令したやつが悪いんじゃ!」
先生「命令した人は、もっと偉い人から命令されたんだよ。」
園児「じゃあ、もっと偉いやつが悪いんじゃ!」
その後はもっともっともっと…と、ワーワー騒いでいる間に話はどこかに飛んで行ったのだが(何せ幼稚園男児の会話)園長先生が静かにすっと目を落とした表情が印象に残っている。彼は誰が悪なのかという質問に答えを与えなかったのだ。
これは、ずっと私の中で「何てことのない話」だったのだが、急にフッと大人になって、何故この時の園長先生が答えなかったのか分かった気がした。
彼もまた原爆について、誰が悪いのかという答えが見つからなかったのだ。
あちこちで講演を行ったりして人望もあったのは、彼が決して平和の二文字を安売りしたり、押し付けたりするようなことはなかったからで、それでいて平和教育にはずっと力を入れ続けていた。そんな彼の活動に合点がいった。
原爆も平和も祈りも、全ては彼の探求者としての行動であって、ベラベラと誰かに自分の答えを説くようなことはせず、二度と同じことは繰り返さないで欲しいと訴えるだけで十分だったのだ。
どんなお名前だったけなぁ…と、ネット検索などには引っかからないだろうしと思ったら、何とWikipediaに掲載されていてビックリ。想像してたよりも有名人であった。被爆者でいながら、長寿を全うされたとのこと。合掌。
※写真はウチのお墓の近くで咲いていた、白いキョウチクトウ(夾竹桃)花言葉は「用心」「油断大敵」「危険な愛」うーん、何とも意味深。